« ディープインパクトよ、お疲れさま | トップページ | ショスタコーヴィチの証言(3)グラズノフ »

2006年10月 3日 (火)

ショスタコーヴィチの証言(2)

「どういうわけか、プロコフィエフとわたしのあいだには友情が生まれなかったが、それはおそらく、プロコフィエフという人には、およそ他人と友情を分かち合う気がなかったからだろう。…プロコフィエフの創作活動における新しい時期は、ちょうど彼の死の直前にはじまっていた。なにか新しい道を彼は手探りで見つけたみたいだった。おそらく、その音楽はいまあるものよりももっと深遠なものになったはずであるが、それははじまったばかりだったので、そのさきどうなるかを、わたしたちは知らない。
プロコフィエフにはお気に入りの言葉が二つあった。そのひとつは、『面白い』という言葉である。…もうひとつの言葉は、『わかりましたか?』というのだった。…プロコフィエフのこの二つのお気に入りの言葉が、わたしをいくぶんいらだたせた。低能の食人種の語彙ではないか。」

ショスタコーヴィチの歯に衣着せぬ言葉が続きます。

プロコフィエフは幼年時代からひじょうに恵まれており、自分と違い悩み事など何もなく、絶えず金と成功に恵まれていた結果、わがままな神童の人格ができあがってしまった。

「あるとき、チェーホフはこう語っていた。『ロシアの作家は排水管のなかで暮らし、わらじ虫を食べ、そして洗濯女と寝る』。このような意味では、プロコフィエフはけっしてロシアの芸術家ではなかった。それが、つぎからつぎと起こる事件の変化に呆然としてしまった理由でもある。」

「おそらく、プロコフィエフがわたしを作曲家として真面目に扱ってくれたことは一度もなかった。彼はストラヴィンスキイを好敵手とみなしていた。そして、ストラヴィンスキイを侮辱する機会をけっして逃さなかった。いまでも覚えているが、ストラヴィンスキイに関するなにかいかがわしい話を切り出したことがあった。わたしはすぐに話題を変えた。」
(※ショスタコーヴィチはストラヴィンスキーを現代の最も偉大な作曲家のひとりとして尊敬している)

「メイエルホリドがプロコフィエフのオペラ《セミョン・コトコ》(カターエフ原作)の演出にとりかかったかと思うと逮捕された。あげくの果てに、プロコフィエフは自分の運転するフォードで若い娘を轢いてしまった。
フォードは新車だったが、プロコフィエフはそれを乗りまわすことができなかった。モスクワの通行人が訓練されていなかったので、自動車のすぐそばを横切るからである。モスクワの通行人を自殺志願者とプロコフィエフは呼んでいた。」

「第二次大戦中には、わたしたちの敵意が表面に現れた。プロコフィエフはいくつもの力のない作品を書いた。交響組曲《一九四一年》や《名もない少年のバラード》のような作品である。わたしはこれらの作品にたいして、それ相応の価値しかもっていないという意見を表明した。プロコフィエフはこの借りをいつまでもほうっておきはしなかった。
概して、彼はわたしの作品にはさして注意を払おうとしなかったが、それでいて、わたしの作品にたいして、かなり手きびしい意見を加えていた。」

「いま、わたしは、かなり冷ややかな気持でプロコフィエフの音楽に対している。特別な喜びもなしに彼の作品を聞けるようになっている。…数多くのオペラのなかで、プロコフィエフは表面的な効果を狙うあまり、しばしば本質的なことを犠牲にしている場合が多すぎる。それはオペラ《炎の天使》やオペラ《戦争と平和》にもある。それらを聞いても、わたしの心は動かされない。いま、問題はそのような状態にある。
昔は、そうではなかった。しかし、それはずっと以前のことだった。オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーに対するわたしの熱中が、ストラヴィンスキイも、いわんやプロコフィエフも背景に追いやってしまったのだ。マーラーとプロコフィエフが相容れないものだとわたしに熱心に説いたのはソレルチンスキイだった。」

以上は第二章「わが人生と芸術の学校」からの抜粋。
プロコフィエフが学校の教科書にとりあげられていなかったら(「ピーターと狼」)、きっと私もファゴットなど吹くはめには陥らなかったと思っているのですが…そういう人物だったのでしょうか…それはともかく。
このプロコフィエフのくだりは、本書の中では軽いエピソードのひとつかもしれません。

一章にはショスタコーヴィチのこんな言葉があります。
「困難なことだが、真実のみを語ることにしよう。わたしは多くの出来事を目撃してきたが、それは重要な出来事ばかりであった。数多くのすぐれた人々について知っていることを語るべく努めよう。美化したり、もったいぶったりしないよう、わたしは努めるつもりだ。これは目撃者の証言となるであろう。」

彼は何度も「真実を述べる」ということにこだわり、証言の前半部分でも何度かそれを強調しています。ある出来事をその場で目撃した人たちも、複数いればめいめいが全く違う証言をする、というたとえも語りながら「過去については真実を語らねばならず、それができないのなら、完全に沈黙を守るべきである。思い出を語るのはいかにむずかしいことか。だが、真実を求めて思い出を語る限り、それは価値ある行為となろう。」と、自らの言葉に責任を持つことの表明をしています(それでも、この証言が自らの死後に出版されることをのぞんだのは、出版後の反響を知ることを恐れていたからなのでしょう。精神的・体力的に耐えられない、と。実際、ソ連で生きているうちに彼の身に何か恐ろしいことが起こってもおかしくはない行為なのですから)。

これほどの覚悟をもって言葉を残そうとする態度を、果たして現代どれだけ目にすることができるでしょうか。
彼は「言論の自由」といった言葉を発することさえもはばかれる国・時代に生きた人間。
木に登って兵士たちを眺めている少年たちを、兵士たちがおもしろ半分のように狙いを定めて射つ。少年たちの死体がそりに積まれ運び去られる。死んだ少年たちは笑いを浮かべている。不意に射ち殺され、驚く暇すらなかった少年たち…
そんなことがまかり通る時代を生きてきたショスタコーヴィチは、音楽だけでは伝えられない「彼が見た真実」を残して去りました。音楽あっての言葉、ともいえるのでしょうけれど。
日本の政治家に、この本を手に取って読んだ人があるかはわかりませんが、政治家に限らず多くの人が本書を読む機会があれば…と思っています。そういう私もまだ読んでいる最中ではありますが…でも久々にズシンときています。

« ディープインパクトよ、お疲れさま | トップページ | ショスタコーヴィチの証言(3)グラズノフ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ショスタコーヴィチの証言(2):

« ディープインパクトよ、お疲れさま | トップページ | ショスタコーヴィチの証言(3)グラズノフ »

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

おすすめリンク

INFO UTILI

無料ブログはココログ

瞬!ワード