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2007年8月24日 (金)

上野国立西洋美術館「パルマ展」

Photo先週の金曜日、「日本におけるイタリアの春2007」シリーズの一環として開催されている「パルマ〜イタリア美術、もう一つの都」展に行ってきました。

パルマに行ったのはかれこれ十年以上も前のことですが、洗練されたパルマの人たちの雰囲気と、豊かな北イタリアの余裕がとても印象的だったのを覚えています。
北に住むなら断然パルマかな・・・と今でも思いますね(笑)

展覧会は6つのパートに分かれています。

I)15世紀から16世紀のパルマ〜「地方」の画家と地元の反応
II)コレッジョとパルミジャニーノの季節
III)ファルネーゼ家の公爵たち
IV)聖と俗の絵画〜「マニエーラ」の勝利
V)バロックへ〜カラッチ、スケドーニ、ランフランコ
VI)素描および版画

です。

いつもは音声ガイドを利用する事がないのですが、錦織健さんがガイドということで思わず借りてしまいました(笑)
時々、当時の音楽をBGMに交えながらのシンプルな解説。音楽だけ聴けるようにもなっています。
見て聴きながらの鑑賞は、当時の時間の感覚や時代背景をより立体的に見せてくれるかもしれません。

しかし、あらためてこういう流れで作品を眺めていくと、パルマがイタリア絵画の中で果たした役割の意外な大きさを初めて認識したように思います。
大都市ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ジェノヴァ、ミラノを取り巻くパルマ、マントヴァ、ヴィチェンツァ、フェッラーラ、ウルビーノといった諸公国。
パルマは後者の中でも息の長い芸術活動を続けた国に入るのではないでしょうか。

細かい感想ははぶきますが、個人的に印象深かったのは2点(ほんと独断と偏見):

・ポンペオ・デッラ・チェーザ作の甲冑「百合」(アレッサンドロ・ファルネーゼ公爵着用) 1585-86年頃

・バルトロメオ・スケドーニ「キリストの墓の前のマリアたち」 1613年頃

コッレッジョの「幼児キリストを礼拝する聖母」(1525−26年頃)、パルミジャニーノの「ルクレティア」(1538-40年頃)も必見です。

甲冑は現在ナポリのカポディモンテ美術館に所蔵されているものですが、初めて見たような・・・
ファルネーゼ家の紋章、百合がモチーフとなってちりばめられた優雅な甲冑には息を飲みました。

この作者、ポンペオ・デッラ・チェーザPompeo della Cesaは当時の甲冑制作者としては有名だったらしく、マントヴァ公ヴィンチェンツォ・ゴンザーガのゴンザーガ兜(ミラノのポルディ・ペッツォーリ博物館所蔵)なども制作しています(優雅な百合甲冑に対し、マントヴァ公のメリハリのきいた兜もまた実に見事です)。
この「百合」の甲冑を着ていたアレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese公爵、彼の人生にも興味を持ち始めました。

1545年8月27日ローマ生まれ、ローマのサンテウスタキオ教会で洗礼を受け(この広場にあるバールのコーヒーがまた美味いんだな〜)、幼少のうちパルマに移ってからはめきめきと才覚を現し、10才ですでに叔父アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿(同名ですね)にラテン語で手紙を書いていたとか。
どうやらファルネーゼ一族は早熟な人材が多かったようですね。
とはいえアレッサンドロはさまざまな教育を受けながらも、頭を使うより体を鍛える事のほうが好きだったようです。

やがてアレッサンドロはブリュッセルのスペイン宮廷へ人質として受け入れられますが、1558年には叔父フィリッポに連れられマドリッドの宮廷へやって来ます。
マドリッドには6年暮らし、政治学・哲学を学びます。

イタリアのメディチ家またはエステ家と縁戚関係を結びたがった父に反抗し、1566(1565?)年にポルトガル王族のマリアと結婚後、二人でパルマへ移りますが、彼にとってパルマでの生活は退屈そのもので、馬術やフェンシング、戦術の勉強で気を紛らわせる毎日が続きました。

そうこうするうちにオスマントルコの脅威が徐々にヨーロッパに迫り、1570年のキプロス侵攻を機に法王ピウス5世はキリスト教諸国へオスマン帝国打倒のための同盟軍結成を呼びかけます。

そしていよいよ1571年、300名の兵士によるパルマ・ピアチェンツァ連合軍がアレッサンドロの同輩かつ無二の親友(そして縁戚関係にある)ドン・ファン・デ・アウストリアを総指揮官として結成され、ドン・ファンの要望によりアレッサンドロは共に出征。

二人は若干24歳、ベテランや年上ばかりでつくられた軍団を実地の海戦経験なしの若者がまとめることは困難の極みでしたが、アレッサンドロはあやうく深刻な仲間割れをしそうになったスペイン・ヴェネツィア両軍を団結させることに成功し、ピウス5世にも一目置かれます。

その調停劇の6日後である10月7日、歴史に残るギリシャ・レパント沖での海戦がついに幕を切って落とされ、激戦ののちヨーロッパ諸国の神聖同盟が勝利。

ヨーロッパ史上に残る海戦からパルマへ戻ったアレッサンドロは、元通りの平穏な生活を送り、のち枢機卿となるオドアルドがマリアとの間に生まれますが、1577年、妻はこの世に別れを告げます。
それを機に、アレッサンドロの中ではパルマとの最後のつながりがぷっつりと切れたのでした。
そして同年12月、アレッサンドロはアルプスを越えフランドルへと向かいます。
二度とイタリアの地を踏むことはありませんでした。

そして北の地でも、彼は持ち前の交渉能力でカトリック・プロテスタントの確執を温和に解決していきます。
トップに立つ軍人として活躍を続け、1592年フランスでの宗教戦争で手に傷を負い、ついに同年12月、その生涯を閉じました。享年47歳。

・・・展覧会の記事なんですが、ちょっと脱線してしまいましたね^^;
でも時代背景もまた美術からは切り離せないものですから、ということで(笑)

対するバルトロメオ・スケドーニBartolomeo Schedoni。 彼のこの絵「キリストの墓の前のマリアたち」は、現地パルマの国立美術館でガツンとやられた一枚でした。
まさか日本で再びご対面とは・・・わからないものです^^ 37歳という若さでこの世を去ってしまった彼。

もしも倍の年月を生きていたら、絵画史にどれだけの影響を与えていた事だろうか・・・と、思わず考えてしまうインパクト。
ヨーロッパ近現代絵画史にもつながる何かを持つ人物ではなかろうか、と思うのは極端でしょうか?

なぜ、これだけ大胆な色使いと単純化がなせたのか・・・非常に興味深い画家であります。

しかし・・・やはり同じバロックでもカラヴァッジョのインパクトは、比較にならないかな。
カラヴァッジョの鬼才は時代を超えてオーラを輝かせ続けるのでしょうね。
生身の人間が息づく絵画の数々、来月久しぶりにローマへ行く予定ですが、会いにいく余裕はあるかなあ・・・(かなり厳しい〜(T_T))

パルマ展は26日(日)まで。
パルミジャーノ・チーズプロシュット・ディ・パルマの街パルマには、イタリアのもうひとつの奥深い歴史が詰まっています^^

そうそう、音声ガイドの錦織さんの最後の一言「アリヴェデ〜ルチ」がミョーに耳に残ってます(笑)

070817

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