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2013年2月 4日 (月)

神戸大空襲と終戦と

團十郎さんまでが・・・

あまりに次から次へと立て続けに入ってくるニュースに、驚きを禁じえません。
あまりに早すぎる話ばかり・・・にわかには受け入れがたいことばかりです。

人形同士で姿と心が入れ替わってしまう面白い演目がありましたが、なぜか思い浮かぶのはその時に金太郎姿だった團十郎さんです・・・。

一方で、死に目に何度も遭いながらも、今もありがたいことに存命の我が父。
本当に、人の一生というのは不思議なものです・・・。
今朝、たまたまラジオで倉本聰さんが疎開の話をしていたので、また戦争時の話になりました。

今のうちに書き留めておこう。
6年前にも戦争関連の記事を書いています。)

1945年3月10日の東京大空襲から始まり、日本は名古屋、大阪、そして神戸、京都と無差別襲撃に見舞われました。

父が経験したのは神戸大空襲。1945年3月17日のことです。
「無差別」の名の通り、女子供であろうとも人影さえ見えれば焼夷弾がバラバラと落ちてくる。
いつも聞いていたのは「おばあさん(父の母)と一緒に林の中へ必死に逃げ込んだ」話でした。

どれだけ逃げても、焼夷弾は自分の左右に恐ろしい数が無作為に落ちてくる。それでもどういうわけが二人には当たらなかった。

恐怖と闘いながら必死に駆け上がっていった高台には、神戸の祇園神社がありました。せっかくなので、昨年旅行で訪れた時の写真も交えつつ・・・。

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駆け上がったというこの階段。そして神社。

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今も存在している祇園神社ですが、ここはそもそも京都の祇園神社以前に建てられたもので、平清盛が広島から運んできた御神体を道中で一度休んで祀ったところが神戸の地だったというわけです。
その御神体をさらに御霊分けしたのが京都の祇園神社だということは、意外と知られていないことだと父が申しておりました。

話が逸れましたが、その祇園神社。
清盛公がそこで福原京の建設を練ったという言い伝えが残っているだけあり、眼下には神戸の街が視界いっぱいに広がっています。

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その日、あたり一面は火の海で・・・家に帰ってもきっと跡形もなくなっているのだろうとぼんやり考えながら、その光景を見ていた父。
「自分が通ってた小学校が真っ赤に燃えてたよ。体育館には小磯良平の大きな立派な絵もあったのに・・・全部焼けちゃったんだよなあ・・・もったいないよなあ・・・」

大空襲の日、なぜ父と祖母だけが逃げて行ったのかが疑問でした(たぶん、いつも話半分にしか聞いてなかったからかも・・・)。
「おじさんとおばさんはその時どこにいたの?」とあらためて訊ねたら。

「兄さんは陸軍の士官学校で朝霞(埼玉県の)にいたんだよ。姉さんは家に残ってたんだ。必死に火を消してたんだよ。おかげで奇跡的にうちは燃えずに残ってた。隣は延焼で全焼したのに、運がよかったとしかいえないよ」

そういうことだったのか。おばさま(すでに亡くなっていますが)が必死に駆けずり回って火消しをしたという話だけは何度も聞いてたけど・・・やっと話がつながった。

別に、神戸大空襲の日だけがひどかったわけではない。

ある日、食べるものもないので山菜でもどこかに生えてやしないかとそのあたりを歩きまわっていた父。
やることといえば、ふらふらのやせ細った体でとにかく食べられる物を探すだけの毎日。
その日、突然空からアメリカの機体が接近してきて、たった一人しかいなかった父に向かって機銃掃射を浴びせてきたアメリカ兵。
(子供であろうと容赦ない・・・・・・)
なんとかコンクリート製の橋の下まで逃げて行き、九死に一生を得た父・・・
自分にだけ向けて次々と仕掛けられる攻撃。もう、どんなに恐ろしかったかと・・・
「怖くて怖くてたまらなかったね」と言う父の言葉が放つ余韻は、完全に自分の体の記憶に染みついた者にしか出せない余韻でした。

「あの橋がなかったら一巻の終わりだったんだよなあ」

当時、爆弾が落ちてきたときに逃げ込むための塹壕のごとく、「タコツボ」があちこちにあったそうです。
空襲警報が鳴り響き、外にいた父は慌てて目に入ったタコツボに飛び込んだはいいけれど・・・
細すぎてちっぽけな自分にはタコツボが大きすぎて、起き上がれないまま仰向けに空を見上げていて「どうしよう、出られなくなったら」と焦りながらも時が過ぎ、空襲がおさまった後に見知らぬおじさんから引っ張り上げられたとか。

灯火管制で真っ暗だった毎日。
そして1945年8月15日。「敗戦なんて知ったこっちゃない。終戦と聞いて明かりがともせるってだけで、ほんっとうに嬉しかったなあ。もう爆弾でびくびくする日からはおさらばできるんだから。もう、嬉しくて嬉しくてたまらなかった」

それが、何もかも失って恐怖と飢えだけが人生だった父の実感でした。
終戦時の父は中学一年生でした。

今の政治がどこへ向かっているのかはわかりませんが・・・円安が進んでいるとか聞きますが・・・

そういう時代を私たちの国も経験してきたのだということを、風化させない歴史の伝え方の見直しも忘れてほしくないと切に思うのです・・・。
そういう時代を身をもって知らなくとも、想像する心を持てるか否か。
恐ろしく重要なこと。

自分の頭で考える教育を・・・平和のためには「洗脳」ではなくまっとうな教育を。

素直に信じることも大切ですが、その前に大切なのは真髄を観る力をつけること。

若い人たちには、過去と現在の日本のあやまちを反面教師として、力強く生きていってほしい。

自殺以前にやることは誰にでもたくさん、たくさんあるのだ。苦しんでるのは1人だけじゃない。
道半ばにして生きたくても生きられない人たちがたくさん、たくさんいるのです・・・
そして死は、遠い存在でも近い存在でも、残された人たちにとっては辛い、辛い仕打ちなのです・・・。

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コメント

我々世代の両親は少なからずみんな同じような体験を持っていますね。

実体験として記憶のある最後の世代でしょう。その両親から話を聞ける我々もまた次代へ伝える責任があると思っています。

ろーるさん、昨年の夏にろーるさんが広島の話を記事にされていたとき、コメントができませんでした。

我々世代の責任は重大ですね。

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