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2014年4月 8日 (火)

「互助会」という言葉に

かなり久しぶりに、ふと、とある方のブログへお邪魔しました。
その方が、今回の新横綱誕生を「モンゴル互助会」と呼んでいて。
その方がそういうことを書くのはわからないでもないのですが、記事に寄せられたコメントのほうに凹んでしまった。
私がかつて楽しみにしていたブログの管理人さんだったので。
その中で最も凹んだくだりが、はるっぺに対する一言でした。

ショックすぎたので、これ以上コメントする気にもならないのですが、私は言いたい。

日本人のいじけ根性が私は本当に苦手だ、と。

うじうじくだらぬことを言っている大相撲ファンが、マスコミに踊らされやすい日本人の大相撲ファンが、日本人力士の質を下げてしまっているのではないのか?

もちろん、どんな意見があってもいいと思う。

互助会、と言うならば、それは「お互いを切磋琢磨する」という意味で使っているのだと思いたい。

でも、日本人日本人とまくし立てる人たちからは、ひがみ根性しか汲み取れない。

北の富士さんの春場所千秋楽での苦言は、全く異なる次元のコメントでした。

継続して大相撲を見ている人たちは、大相撲の何を見ているんだろう?

自分が全部正しいとは、もちろんいう気はありませんが…

寝る前にちょっと(かなり、相当)寂しい気持ちになってしまった。

ひがまなくたって、いつかは日本人横綱が再び現れることでしょう。

下からどんどんクオリティーを押し上げて行くような大相撲界に期待したい。

日馬富士は今回の巡業でも、ちゃんと若手で力をつけてきている力士たちにモンゴル人、日本人の区別なく相撲面でのアドバイスをしている。

その横綱に対する一言に、本当にがっくりです。

大きな視野で大相撲を楽しむファンが一人でも多く増えて、いじけ人種濃度が薄まればいいなあと思いつつ、心を切り替えるべく投稿也。

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コメント

「モンゴル力士が日本人よりも有利な点は、日本人力士よりも不遇なところにある」というのが、今のわたくし自身の考えです。

日本人である自分から見ても、あまあまな条件で横綱になることができない力士がいる一方、厳しい条件を与えながらも横綱になった力士がいる。

「事実をありのままに見て、ありのままに受け入れる」、あるいは、「事実をそれ自身が物語るように受け取る」ということが、今の日本人には欠けているのだと思います。

「事実をありのままに受け入れる事ができる」というのは、心の強さでもあると思います。
事実をありのままに受け入れることができたとき、はじめてその先に進むことができるのだとも思います。

本当にがんばっている力士は、その成果が目に見えるまで、愚直なまでのその真面目さゆえ、むしろ馬鹿にされたり嘲笑われたりする傾向がある予感もします。

でもきっと、だからこその強さを、いつか花開かせることになるのだと思います。
その本当の努力の深みを、多くの人たちが認識できないとしても…。

以前にも語ったことがありますが、日本人はいつからこう骨抜きになってしまったのでしょうね・・・。 情けないです!

まるひげさん、素晴らしいコメントをありがとうございます・・・(T ^ T)

そうなのですよね。
日本人は大陸の人たちに比べ、感情に押し流されやすい傾向にあるように思います。
繊細さゆえ、とも言えるのかもしれませんが、それだけではないというか。
やはりまるひげさんの仰るように「不遇さ」というのがポイントではないかと。
強さは逆境やハードルをいくつも乗り越えてこそ培われるもので、その辺りが質的に不足しているのが日本人なのでしょうか。

体の小さい力士は、それ自身がある意味「不遇」といえます。いくら頑張って「その”不遇さ”を逆に生かして」土俵を沸かせる存在になったとしても、頂点まで昇り詰めるのは身体的にそうそう容易くできるものではありません。でも、結果的に頂点に昇れなかったからといって、その力士の存在価値が薄れる訳では全くなくて。

愚直に目の前のことに取り組み続ける人には、付け焼刃では醸し出すことのできない、勝ち負けなど関係のない崇高さがあると感じます。一本の筋がスッと通った崇高さ。
私が垣添の相撲にとても感動を覚えていたのは、彼にはそういう愚直さがあったからでした。番付よりも大切なことを、たくさん土俵上から教えてくれた力士でした。

外国人力士はそもそも、人数制限がある中でなんとか入門を果たした人たちばかり。
相撲の取り方を知らないというだけであって、そもそもの身体能力は門戸が広い日本人に比べれば、数段上ともいえます。
それでも、身体能力だけではどうにもならない。
そのダイヤの原石である身体能力を、どう磨いて本物の輝きを放つようになるのか。

結局は努力あってのもの。
努力の深みというものは、深い場所を知る人ほどさらに深い場所へと旅を続ける特権を得ることになるのでしょうね・・・。

白鵬も日馬富士も鶴竜も、決して「現状」でとどまる人たちではない。
互助会で綱を張れるほど、綱は甘いものではありません。

ろーるさん、コメントを寄せた方を慕っていただけに、昨夜のショックはとめどなく・・・
一夜明けても残念な気持ちには変わりがないので、もうその方たちのブログを覗くのは当分やめておきます。
悲しいのか情けないのか・・・どちらもあるかな(u_u。)

もし現代の日本人が明治時代の人たちに会ったら、現代人はことごとく喝を入れられること間違い無しです。
自らを貶めるような言動ほど時間の無駄と感じることはない、とつくづく思います・・・。

色眼鏡無しで全てを受け取ることができる人が増えるといいですね。
(危惧しているのは、上のような人たちが力士自身に近い場所にいることも往々にしてあるようだ、ということです・・・)

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