ひとつ気になっていること
もともと
「○○は日本人だから〜だ」
「イタリア人というのは〜〜である」
といったように、国民性を100%ステレオタイプ化する表現が苦手です。
「〜傾向にある」というのであれば、わかります。
もちろん、「〜である」という表現自体がそれを100%肯定しているとは限らないところが、言葉の難しさではあるのですが。
わかるのですが…今年の初場所中に豊真将が引退を発表した際、「日馬富士には責任を感じないでほしい」とつぶやいた私に、気になる一言を寄せた方がいました。
「私は責任を感じて欲しい。モンゴル人には『責任』という概念がないのだから」
といったような内容でした。
「責任」の概念がない。
どういうことなのだろう…
国民として、「責任」という概念がないとは?
それ以前に、「モンゴル」と一口で言われても、「モンゴルとは一体何ぞや?」と思考停止してしまうレベルの私です。
「日本人とは何か?」と聞かれたとしても同じレベルですが…
日馬富士は、気にしていたと思います。
私が「責任を感じないでほしい」とつぶやいた意図には「今後の相撲でも、詰めを誤って負けるようなことがありませんように。油断なく相撲がとれますように」との意味合いが込められていました。
そこに「駄目押し」を容認する意味合いを込めているわけではなく(あの最後にしても駄目押しではなかった)。
日馬富士が嫌いになった豊真将ファンも多いのでは…と想像します。
でも、私からすれば、いつもあのような足の構え方になってしまう豊真将のほうが見ていて危なっかしかった。
だからといって、どちらのせいとは言えない。そこは勝負の世界であり。皆、命がけで相撲をとっているのであり。
そうは言っても、怪我をさせた力士がそれをもとに引退してしまったこと…それを「モンゴル人だから」全く気にしない、というのは、私には想像できない。
「モンゴル人には責任という概念がない」
本当にそうなのだとしたら、その根拠を知りたいものです。
日馬富士を見ていると、「運命」「宿命」といった、人間を超えた何かへの畏敬というものを感じます。
そういう意味では「それが運命」と割り切る面もあるかもしれない、とは思います。
でも、人の心を大事にする横綱が、「責任」という概念を知らないものでしょうか。
だとしたら、これまでの彼の横綱としての行動の数々をどう説明すればいいのでしょう。
日馬富士関を聖人化するつもりはありません。
でも、人生の半分近くを日本で過ごし、人一倍「日本」という国を理解しようと努めてきた横綱、横綱としての責任を果たそうと努め続けている横綱に向けられた言葉として、このことはとても残念に思った初場所の出来事でした。
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気にしなくていいんじゃないかな?
>>
「おい、イスラム国!」“初のエジプト人力士”大砂嵐を悩ませた心ない野次…… http://www.cyzo.com/2015/02/post_20457.html … これがサッカーだったら客は永久追放、国技館もヤジ放置したペナルティで春場所は無観客場所にされるとこですよ。FISA(国際相撲連盟)がなくてよかったですね(棒)
上の文章は、あるツィッターから拾ったんですが、「日本人は、イスラム教徒=テロリストと思っているのだから」ってことは絶対ありえない。
自分の狭い知識だけで、勝手な決めつけをするヤツは世界中どこにでもいるんだろう。
「相撲女子」を「スージョ」というらしいが、相撲フーリガン=「スーリガン」もこれから増えてくるのかねえ。
頼むから、俺の相撲観戦の邪魔はしないでほしい、と願うばかりです。
またエラそうなことを書いてしまった。すみません。
朝日新聞の抜井記者、「白鵬全面擁護」のツィッターまだァ?
投稿: shin2 | 2015年2月12日 (木) 18:33
責任とかいう問題ではないと思います。
だって、そんなこと気にしてたら相撲なんて取れませんよね・・・
みんな生活のために必死ですし、土俵の上では勝負ですから。
それに、明らかに日馬富士は気にしていました。
でなければ、初場所のあの常幸龍との相撲では勝ってたはずです。
格闘技にケガはつきものだっていうのは、力士はみんな知っています。
(私の息子も柔道をやっていたときにはケガばっかりして手術もしました(汗))
だからこそ、ケガをしない身体を作るという指導を親方もしているワケで。
そして、あの豊真将戦も決してダメ押しではなかった、と私も思います。
どんなに国が違っても人間の心は一緒です。
ひとつの国に同じ性格の人ばかりがいるワケがありません。
日本でもいろんな人がいます。
そんなふうに一括りにする方が間違っていると思います。
傾向がある、というのは確かにあるでしょうけれど
日本は平和だ、といっても残虐な事件も後を絶ちません・・・
全てはその人その人の問題であり、決めつけるのは違うと思います。
投稿: ルード | 2015年2月12日 (木) 20:21
追記です
アメリカには「肩こり」という言葉がないそうです。
以前はアメリカ人は肩が凝らない、と何かで読んだのですが
実際にはそうではなく、単にそれに相当する言葉がないそうです。
肩の筋肉痛とか、肩が痛いとか、たしかそういうふうな表現をすると
そう聞いた覚えがあります。
もしかしてモンゴルには「責任感」という言葉に相当するものがないのかもしれませんね。
日馬富士がこの前講演したとき
「人の信頼を裏切ったら、死んだことと同じ」といつもお父さんに言われていた、と
言ってましたが、もしかして責任感の違う言い方かも知れないな・・・と
ふと思いました。
投稿: ルード | 2015年2月12日 (木) 21:03
shin2さん>
ありがとうございます。
状況が状況だっただけに、自分の中では消化しきれないでいました。看過できない一言だったのです。
大砂嵐、気の毒です。
自分自身の鬱憤を別の形で他人にぶつける人たちは、残念ながら世の中に多く存在します。
これがなくなることはないのでしょうが、それこそ「スーリガン」旋風が吹き荒れるのだけは御免です。
しかもサッカー観戦ではアルコール禁止もある中で、大相撲観戦ではアルコール解禁三昧ですからね…
抜井記者、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」と一度つぶやいていましたが、それが答えなのでしょうか?
最近、まともにツイートを(協会のさえ)追えていないのですが、話題に上がっていないところを見ると「喉元を過ぎた」つもりでいるのでしょうかね。
(過ぎてない!それこそ「責任」の概念がないのでは?)
投稿: 蒔右絵門 | 2015年2月12日 (木) 22:18
ルードさん>
そうですね…
私も、駄目押しと周囲から認定された翌日に限って土俵際の詰めを誤った日馬富士を何度も見てきているだけに、豊真将が引退した翌日の常幸龍戦はちらっとルードさんと同じような考えが頭をよぎりました。
いずれにしても、人それぞれに感じ方・同じ国でも育ち方が違う中で、極端に言えば「白鵬も日馬富士も鶴竜も皆画一的に一緒」というような括り方をするようなことは当然ながらできません。
日馬富士関も「横綱としての責任」という言葉をついこの間のトーナメントでも発しています。
「人の信頼を裏切ったら死んだことと同じ」も、責任感という名の別の形ですよね。
そして豊真将に対しても「本当に申し訳ない」ともコメントしている横綱です…
もしもその方が「それは言葉面だけだ」と思っているのだとしたら、残念です。
余談ですが、「西洋人に肩こりはない」とはよく言いますよね。
この間テレビを見ていて、そもそも「肩」の捉え方が違う、というのを知りました。
西洋人は「肩はどこ?」と質問すると、肩関節の部分だけを指すそうです。日本ではもっと広く捉えますが(^_^;)
ちなみにイタリア式だと「背中が痛い」というような言い方をするのですが、「どこ?」と聞くとそれが日本でいう肩こりと同じ箇所だったりします(笑)この間のテレビでは「日本に住むようになったら肩こりになった」という外国人がたくさんいましたが、私が知っているのはイタリアに住む(日本に来たこともない)イタリア人ですw
いずれにせよ…真剣勝負である限りは見る側にも覚悟が必要なのだ、と、本場所を見るたびにこれまで以上に思い起こすことになりそうです。まさに「一日一番」なのだ、と。我々は見届けるのみなのですよね。
なんだか答えになっているのかいないのか…妙な返答になってしまい申し訳ありません。
投稿: 蒔右絵門 | 2015年2月12日 (木) 23:28