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2020年5月

2020年5月14日 (木)

日本相撲協会がことを重く受け止めているのならば

以前から思っていたことだし大相撲中継解説者も事あるごとに触れていたことだが、一人の大切な命を奪ってしまったということは、現代の角界における力士のあり方を今一度真剣に問うべき時期に来ているのだとわたしは考える。本当にこのまま力士の平均体重を増加させる一方で、果たして良いのだろうか?

とある相撲部屋では力士の半数が糖尿病を患っているという。20代〜30代という若さでこれは一般社会に照らし合わせれば、異常としか言えない事態だ。

食べなければ身体が作れない、を、履き違えていないだろうか?
事実、稽古で少しづつ体を大きくしていったいまの横綱たちに、内臓疾患は見られない。食生活には最新の注意を払い、極めて健康だからこそ、長く横綱を務めることができている(相撲スタイルや休場特権は別問題として)。
もちろん、地位が高くなればなるほど食の自由度が増えるという利点もあるのも角界の掟でもある。

しかし、もともと内臓が強く無い人も少なくは無いと思う。何しろ、人の何倍も食べなければならないという行為自体が、内臓に多大な負担をかける大変リスクのある行為なのだから、そこへ来て無理やり身体に詰め込むのであれば、食の内容をそれこそ吟味しなければ、身体は内臓から参ってしまうのは誰の目から見ても明らかなことだろう。

どんなことも専門外の一ファンが苦言を呈する話では無いが、しかしお金を払って大相撲を観に行く身からすれば(今はそれさえもできないが)、無駄に太りすぎて挙げ句の果てには大怪我する力士続出、デブデブドーンとぶつかって相手をすっ飛ばすだけの瞬間相撲ばかり、かと思えば動けないから相手を叩く、叩かれた相手は普段どれだけ稽古できてるか分からないほどあまりにも簡単にバッタリ落ちる、なんてことが繰り返される相撲などは正直観たくないのである。別に、デブデブドーンがいけないとは言わないが、あまりにも直線的な相撲が増えてしまったというのは極めて憂慮すべき事態だとは考えていないのだろうか?
客が見たいのは、丸い土俵をこれでもかというほど駆使して粘り強く闘い続ける力のモノノフの姿だ。強靭な足腰と磨き抜かれた技と心を持つ姿だ。
それを阻むのが、今の相撲部屋の食と稽古の内容ではなかろうか。
食も立派な稽古の一つだ。
その食をもう一度、見直してもらいたい。稽古とセットで。体重を増やせばいいなんてものでは無いことは、先に触れた通りだ。

勝武士さんを失ってしまったことが本当に悔しくて悔しくて、残念でならない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
あんなにも角界を明るくしてくれた若者が、何故こんなにも早く命を奪われなければならないのだろう。
ご両親やご家族、友人、そして師匠のお気持ちはいかばかりか。
そして部屋の協会員、協会員全体も、後援会も、ファンも誰もが今どうしようも無い深い悲しみに覆われている。
私も昨日から、自分の中に得体の知れない怒りと悔しさ、悲しみばかりが沸き起こる。
だから、書き残しておかないと自分も前に進めない。

どうか、犠牲になってしまった大切な命を無駄にしないで。
今一度、現代の大相撲の姿はどうあるべきかを根本から問い直してほしい。科学という強みもある現代を、利用し切って欲しい。

勝武士さんは、きっとその問いかけを私たちに教えてくれたのだ。
そう考えでもしないと、勝武士さんの魂が浮かばれないではないか。
私たち自身の心を救うためにも、皆さんどうか生き抜くための知恵を出し惜しみしないで欲しい。今考えずにどうする、というところにまで我々は来ているのだ。

コロナウイルスが常に問いかけているのは、我々人類の生き方が果たしてこの世に存在するだけの意味があるのか、ということだ。
私は「コロナが憎い」と言う人たちを信用しない。
我々はこの地球に対し、重大な責任を負っていると言うことを忘れてはならない。

そして、相撲は人間が生きていくために、八百万の神に感謝する神事とも切り離せない、ただのスポーツではない我々日本人の自然に対する願いと感謝の心を表す儀式でもあることを忘れてはならない。
もちろん、一人一人の力士はそんなことを考える余裕もないかも知れない。
しかし、今一度我々が何故この格闘技を千年以上も連綿と繋ぎ続けてきたのか、伝統というレベルにまで作り上げていったのか、もう一度じっくりと考えるべき時が来たのだと考えて良いのではないだろうか。

「お陰様で」生きていることを、今一度各人が自分の胸に手を当てて考えることをしようではないか。今を逃したらまた同じことが繰り返されるだけなのではないかと、世の中のことを危惧している。

勝武士さんは、日馬富士の引退相撲でも初っ切りを務めてくださった。
何事にも一生懸命だった一人の力士の命を無駄にはしたくない。

皆さんも自分と自分の大切な人の命を守ってください。
そして今だからこそできることをしていこう。

勝武士さん、ありがとうございました。
どんなに苦しくとも、あなたは最後まで真っ向勝負で闘い抜いたのだと確信しています。あなたのファンに対する素晴らしい応対も、私は決して忘れません。
今はゆっくりしてくださいね。
我々も命尽きるまで、この矛盾だらけの魑魅魍魎とした世界でなんとか生き抜いていきます。少しでも良い方向へと進めていくことを考え行動しながら。

先に別世界へ逝かれた皆さんとともに、我々をどうか見守っていてください。

2020年5月 7日 (木)

緊急事態宣言パート2開始の日

気付けば、緊急事態宣言から早くも1ヶ月。

今日から再び5月31日までが辛抱の時、となりました。

医療崩壊を防ぐための対策が他国と比べて2ヶ月もあって、一体どこまで進んだのでしょうか。政府の先を読まない、無責任な政策にはあきれ返るほかありません。ロクに勉強もせず改憲を推し進めようとする危険な行為といい、今度ばかりは国民がだんまりを決めていては取り返しのつかないことになってしまう。

現場の方達が献身的に毎日神経をすり減らしながら動いてくださっているおかげで、自治体の長がどうにか現実的な策を打っていってくれるおかげで、また資力のある会社が動き、少しでも手伝いたいとマスクを差し出す国民がいて、なんとか持ちこたえている状況。

それでもパレートの法則というのはどんな場面でも起こりうるというのが不思議なもの。2割は従えない人が必ずや出てくる。残念ながらやむを得ないことらしい。

早くいったんの終息が見える日が1日でも早く訪れることを祈るばかり。

感染経路不明者が多いのは、本当に本人がわかっていないとは言えない理由があるのだと踏んでいます。が、口を閉ざしたいならその人たちに対する無駄な時間は費やさず、きちんと話してくれる人から対応していって、保健所の仕事を減らすか増強できるようにしてほしい。増強には動いてるのでしょうが、いまだに検査が思うように進んでいないというのは問題です。これが解決できない限り、緊急事態宣言を終わらせることはできない。

一方で今は、いち早く封鎖を解いた諸外国の動向を注意深く見守るしかないかもしれません。いろんな具体的ヒントが出てくることでしょう。

なんだか中国のレストランの光景などを見てると本当に大丈夫なのか?とぞっとしてるのですが・・・

昨日の日本は第一弾の緊急事態宣言から最終日を迎えましたが、関東地方も大雨や雷雨で外出をなおさら控えた人も多かったことでしょう。

かくいう私は、いったいつから引きこもっているのか・・・

先週は金曜日にゴミ出しに外に出てますが、10日以上散歩も買い物もしていません。非人間的生活のようで意外とというか、性分なのか馴染んでるところが怖いかも(その他のゴミ出し、買い物は、外に出たがる家族に任せてる)。

GW中は、ありがたいことにおこづかい程度でもいただいた仕事をやりながら、家事の他にはこれまで忙しすぎて読めなかった本を読んだり、メモを見つけて過去を振り返ったり、録りだめしていた番組を見たり庭いじりをして過ごしました。

洗濯物を干したり庭に出ることができれば日も浴びれるし、立ったまま本を読むこともできるし、テレビを見ながらスクワットしたって良いし。

でもそろそろさすがに散歩はしたくなってきたので、明日には歩きたい。(今日はまだ花粉が飛んでるのか、くしゃみが出るほど風が強いので躊躇)

本当は東京に出て、思う存分美術館や博物館に足を運びたい。はっきり言って、ホンモノ不足・・・

芸術は、映像や画像だけじゃ満たされないものもたくさんたくさんある。何百年、何千年と人間が守り続けてきた宝物は実際に存在することで私たちに生きることのありがたみを教えてくれるもの。音楽もそう。そういったものから切り離される生活はやっぱり辛い。

でも、屋根と水と食べるものがあるだけありがたいものです。噛み締めてます。家族同士が平和だということも。

兎にも角にも、今日から再び出勤の人たちも大勢。

五月病というのは昔から言われている現象ですが、これまで積み重ねてきたデータを元に、もう少し生活を外へと向けていける形作りが国を挙げて進んでいくといいな・・・と思います。

最近読んだ新型コロナウイルス 関連記事で、現実的で良いなと思ったもの:

「緊急事態宣言は継続すべきか」(2020.4.29付)

https://note.com/healthsecurity/n/nc5f27081f18c#D8i9e

2020年5月 2日 (土)

新型コロナウイルスから人類のあり方を問う

いま、人類は何を突きつけられているのか?
人類が地球上に増殖した意味は何なのか?

人間はなぜこの世に生まれたのか、何のために存在しているのか。
何十年も頭の片隅にあり、時にはそのことばかりを考える時もあります。
人間であることが嫌だと思うことのほうが多いほど、現実を突きつけられ、知らなかったことに驚き、なぜそうなるのかと考え続けてきました。

私は新型コロナウイルスを、人類の敵とは考えていない。ウイルスは単に宇宙の法則に沿って増殖を続けるだけです。
それは、地球上で増殖する人類とある意味では同じ。
ウイルスは細胞を探して居場所を見つければ増殖する。
人類は、地球という細胞を食い尽くして増殖してきた。

違いは、地球と人類そのものを滅ぼしているのが他ならぬ人類であるということ。

誰がこの地球上で最も手の施しようのない癌細胞、あるいはウイルスなのか?

人類です。

闘いはウイルスに対してではなく、地球上に住まわせてもらっている責任者としての「人類の在るべき姿」に対する闘いに他ならない。

敵をウイルスとすり替えているだけ。
そして既に、人類同士の闘いが個人レベルから世界レベルにまで、これまで以上に始まっている。日常生活という動的平衡やゲームを享受してきた人間ほど、うろたえている。

アホらしい。
本当にアホらしい。

なぜ、キリスト教や仏教がいまでも存在するのか?
神社という空間が日本人の心に安らぎを与える根拠は何なのか?

私は特定の宗教を信じる者ではない。ただ、宗教が生まれた意味と消えない意味は考える。

現在の新型ウイルスが蔓延する今とその後は、さらなる人類の堕落と地球破壊を助長するのか、それとも全く新たな形の宗教(ここで私がいう宗教は、人間が生きるための指針)が生まれるのかの瀬戸際となり得ます。

しかし残念ながら、人類は原罪を背負いながら生き続けるだけ。
笑う力があり、音楽、言語で抽象的なことを表現する力、さまざまなレベルで感動する心がある人類。
自然を美しいと愛でる人類。
どの生き物よりも、生き物を食す生物であり、魔法のようにそれら植物・生き物を調理し、美味しいという感覚を「楽しめる」人類。

人類のレベルは、残念ながらその人間が置かれた立場によって無数にあり、もはやそれを制御したり、万人を目覚めさせる方法は、絶対的神でも君臨しない限りは皆無でしょう。

絶対的神とは、全人類を同時多発的に、あるいは一瞬で完全なる恐怖に陥れ、誰もが抵抗できないほど人類を壊滅へと追いやる何かです。

今の新型ウイルスには、いくばくかの人類を目覚めさせる力はあったとしても、人類を壊滅へと導くには全くもって十分ではない。
勘違いしている馬鹿者たちが地球上で我が物顔にのさばる続ける限り、目覚めた者たちは日々をとにかく粛々と過ごしていくだけ。
ささやかながら膨張圧力や同調圧力へ抵抗を続けながら。

人類に与えられたかけがえのない贈り物に感謝しながら生きていくのか、それとも無意味に闘いを挑むのか。

一人でも多くの人間が、他の生き物には存在しない人間固有のものの意味を知り、それを使いこなせるように努力していく世界になっていくことを切に願います。
今は惰眠を貪り過ぎなのです。目先のことだけに囚われて。

時間ははっきり言って残されていない。
自分もこの先、一体いつまで生きられるのだろうかと思いながら、世界を見つめつつ黙々とできることをする日々です。
自分にとって大切な世界中の人たちや生きとし生けるものが無事であることを祈りながら。

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